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羽鳥建築設計室まい・たびっくす



まい みゅーじっく6


よく、ショッピンセンターのフードコートで

仕事をこなす事が多いのですが

シネマコンプレックスの様な施設もあるので

大きなスクリーンに

お真美頃な映画配信の宣伝が映し出されます

耳を傾けると 何と40年前青春時代に嵌っていた

QUEENのドキュメンタリー調の作品が

エントリーしているではないですか

丁度高校時代でしょうか?

若い方の知らないレコード録音の時代で

針が擦り切れるほど聞き込みました

「この次が さびだな!」

「ここからが ドラマチックなてんかいにはいる!」とか

全部脳裏に焼き付いていて

忘れていません

私と同世代の方や特に若い世代の方が

「なんだこれ!」「こんなバンドがあったのか!」

みたいな新しい発見が彼らを動かしている様です

40年も前の古いサウンドが

若い人にも通じる 同じ価値観が共有できる

いいサウンドは時代に関係ないのかな?

と思った次第であります。 

 

 

ただいま あいどりんぐちゅう1


設計活動を実質5年ほど休業しておりました

体調も要約落ち着きまして

昨年1月から店舗の設計に入りました

昨年の1年間は 形には成っていませんが

駅前の再開発構想に関わるなど

あわただしい動きをしております

本筋であります 住宅の設計も

現在仕込み中で これは!と思われる

作家先生の作品の分析や研究も開始しました

オートバイツーリングも再開しました

BMW F-700GSというツーリングに持って来いの

マシンが今の相棒です

近いうち全国の古刹を巡ってみたいと思っています。 

 

さいきんとみにおもうこと6


当時世界一美しかった都市江戸

西洋世界では生活空間を美しく整える習慣は

上流階級の人間だけで

教養が無いと見なされていた庶民は

ゴミかくずでとして見放されていたようです

そんな同じ江戸の一般庶民が

自ら率先して庭先に花を植えたり

生活の場を美しく整えられたのは

戦国時代が終わり

どの様な階層のものでも希望すれば

寺子屋で教養を身につけられた事も

大きいかも知れません

そこではどんな事を庶民の人々が学んだのでしょうか

一つは儒教からきた「朱子学」とも言われていまして

「老子」や「孔子」などが残した教えの一部とも言えます

元は「礼記」の一遍だった「大学」「中庸」を抜粋し

「論語」「孟子」を加えその四篇を「四書」とし

この「4書」の事を朱子学と言うそうです

「四書五経」という言葉よく聞きます

 

今 毎朝「論語」を数行ずつ朗読しているのですが

儒教に対する世間一般の評価はかなり偏っているように

思えます。

孔子一門は諸国の王たちから取り立てられたりしましたが

孔子一門の教えの自分たちに耳障りの言い所だけを

採用し利用しただけでした

王や君子をすべての中心に据えて

世界は王の廻りを回り続けるといった部分など

非常に美味しいとこ取りです

孔子一門は孔子の言動がおかしいと感じた弟子たちなら

躊躇することなく孔子に食って掛かります

そこで喧々諤々(けんけんがくがく)の論戦に

発展して行くのですが

弟子たちは決してイエスマンなどではありません

 

穿った(うがった)見方をすれば

実践のための人間学でした

日本の先人たちも特に侍(サムライ) も

唐 宋の時代のこの思想家から

多くを学んだのではないのでしょうか。 

 

 

 

さいきんとみにおもうこと5


江戸時代と言うと

時代劇の水戸黄門や東山の金さんの

時代劇にTVで触れるぐらいで

今の私たちの生活とは

随分とかけ離れた遠い昔の時代の事

の様に思えてしまうのですが

世界の歴史学者や社会学者は言うに及ばず

一般の人々からも

江戸という時代の有り方が

クローズアップされています

江戸時代が成立する前後を合わせると

三百年近くも大きな争いもなく

平和な時代が続いた時代は

世界の歴史の中でも無いそうです

エコロジーの観点だけでも

自然と調和した循環型の社会が完成していて

これからの国際社会の有り方を

探る上でも貴重な時代であった

という認識だそうです。 

 

さいきんとみにおもうこと4


わたしが小学生の子供の頃

今の私ぐらいの年齢だった祖父に連れられて

月2回程宮城県の主だった山に登山していました

一生懸命に辛い思いをして登山道を

進んでゆくそんな事を続けられてこれたのか

一つには登頂した時のなんとも言えぬ達成感と

そこから眺められる世界への感動も

有ったのかも知れません

登山では、登って行く途中で目指している山頂が

ちらりと見える時が有るのですが

そのゴールを見続けるとある種絶望感にとらわれる事も有ります

「あんな所まで、苦労して行けねばならないのか」

そんな時はゴールを忘れて

足元の川や草花 野鳥のの声などに

関心の矛先を向け変えてみると苦痛も忘れるという事を

経験として身に着けました

一度目標を定めたら後は貪欲に一歩一歩根気よく歩き続ける

物事の本質を登山と祖父から教えられました。 

 


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